断片

「緊張するのは、自分に自信がないから。

自分に自信がないのは、どっかで自分に期待してるから。

その期待がわからない限り、君はずっと、緊張すると思うよ。」

そういって、彼は、私の前で、人差し指と中指で挟んだ煙草を口元へ運び、おもむろにポケットからライターを取り出し、火をつける。そして、静かに煙を吸い、唇をすぼめて息を吐く。

彼は、くゆらせ浮かんでいく煙を眺めている。

私は、彼の瞳が私を見ていないことに安堵していた。

今の私は、ひどく緊張しているから。手元に置いてある、何も入っていないマグカップをずっと触っている。その手はなぜか、小刻みに震えていた。落ち着こうと思えば思うほど、その手は震える。

「緊張しなくなる日は、来るのかな」

灰皿に灰を落としていた彼は、顔を上げ、冷たく鋭い目を向ける。

私は手を足元に沿える。顔を見れない。震えを抑えるため、両手を組み、力を入れる。

「自分への期待がなくなるとき、緊張しなくなる」

彼は、つまらなそうに呟く。

「それは、自分が消える時、諸空間の責任に背を向ける時じゃない。それは嫌なの」

震える声を、意識し、自分の言葉をゆっくりと紡いでいく。

「じゃあ、君は緊張を肯定できるのか」

彼はすこし語調を強くし、煙草が灰皿へ強く押しつぶされる。

「無意識に根付いた期待は、不条理に緊張を生み出すんだ。そして、緊張する姿は、他者の認識に頼りなく、情けなく映る。映ったままに理解する、時間の無い人間は、その人間の本当の気持ちを理解できないかもしれない。が、本当の気持ちを理解する必要のない、消費主義がはびこる、能力主義が軸の現代において、空間への瞬間的な順応が難しい人間に、社会は生きる価値を与えてくれると思うのか」

「生きる価値が与えられるって何」

私は、彼の言葉に、苛立ちを隠せない。機能主義的な彼の言葉は、私を酷く不快にさせただけでなく、緊張から解放した。

「生きていく人間が、社会と蜜月になってしまうのは否定しない。けど、価値は自分の中で色付けられるものでしょう。自分という主体が、他者という主体と関わる現在を経験することで、価値を創出し、思い出という名の過去にするって思ってる。価値を与えられるのでなく、創り出していくのが、私たち人間の尊厳を保つことでしょう。そのときに生じた責任に、うまく意識を馴染めず緊張してしまうのは、当然だと思うし、必要なことだと思う」

彼は、私の言葉に気圧されたのか、閉口している。

「ごめん。少し言い過ぎた」私は、なぜか、謝罪を口にしてしまう。

私と彼を隔てる小さなテーブルが、忽然と大きな溝のように思えてくる。

実存という殻に覆われた私と彼。それだけでも距離があるのに。

「お待たせしました」

二人を包んでいた、重たい沈黙が店員の言葉で裂ける。

テーブルに、トマトソースがかけられたパスタと、二杯目の珈琲が置かれた。

「この店のトースト、意外とおいしいよ」

定員が去り、なぜか、テーブルにはないトーストの話が、私の口から出る。

「そうなんだ」

彼は、私の言葉に興味が無いようだった。考えを巡らせているのだろうか。

私は、彼の様子を見、パスタを食べることに専念する。フォークにパスタを小さく絡もうとする。しかし、手が震えているため、うまく巻けない。深呼吸をしてから、もう一度試みる。フォークに巻き付いたパスタをゆっくり口元に運んだ。味は、値段の割にはおいしくない。

 

私がパスタを食べ終えると、彼は煙草を取り出し、火を点け、吸う。

私も煙草を取り出し、口に添える。すると、彼は手元のライターを私の煙草に近づけ、火を点けてくれた。彼の些細な優しさ。煙を吸う。

「僕は、社会に出て働き始めたとき、緊張しすぎて、仕事が捗らなかった日が続いたんだ。毎夜、自分の仕事のできなさに憂鬱になってしまうから、ほとんど眠れない。自殺を考えた日もよくあったよ。その時、今さっき言った考えが浮かんだんだ。期待をなくし、責任を感じないために、心の自分を殺して、誰かに自分を委ねてしまおうって。それは、僕の尊厳を犠牲にすることだった。社会に要請されるままに生きることが、価値となっていく、自分の無い生き方だった。社会に出て五年が経とうとしているけど、これが大人なんだって考えることはよくあるよ」

彼の眼が、黒く濁り、悲しみを湛えていることに気付く。そして、彼が就職したのが、無名のベンチャー企業だということを思い出す。遅かれ早かれ必ず死ぬ人間に、「必死になれ」「一生懸命に取り組め」と死を要請するような言葉が飛び交う、能力主義が広まった社会。彼は、生きながら死ぬことを実行しているのだろうか。

「忘れてしまった初心を取り戻して、小さな幸せ、小さな不幸せ、たくさん感じ取ろうよ。たとえ、それが社会に否定されるものだとしても、尊厳は輝きはじめる」

彼は私を見る。私と彼は、灰皿に煙草を押し付け、火を消す。残った吸い殻が弱々しい煙を燻ぶらせている。

 

 

 

 私たちは、店を出、二人並んで夜道を歩き始めた。