分断についての拙い考察

去年の夏休みのことです。

私は、祖父の故郷で最近の芥川賞受賞作と、川端康成芥川龍之介の作品を読み耽っていました。


それらを読みながら、深く、考えていたのは「分断」 についてです。


「貧困と富裕」「白人と有色人種」「性をめぐる差異」「人と人」 「資本家と正規雇用と非正規雇用」「資本主義とアンチ資本主義」などの分断が、 コロナ、経済不況、異常気象による災害、もはや長期化し過ぎて、 世界を分断へ傾けるための演出のようにも捉えられる、 ウクライナとロシアの争い… といった要素により深刻になっています。


私は、スマホなどの‘言葉を軽く扱わなければならない機器’ が普及したことで、 このような分断が深刻化したのではないかと考えています。


スマホなどの携帯電子機器の敷衍により、 LINEやTwitterInstagramFacebook等のSNSが急速に人々の生活に根を張り、 かつての人々が行ってきた、筆やペンを握りながら、 頭から言葉を捻り出し、洗練する作業などは、 一部の人の趣味になってしまった。このような現在では、 ほとんどの人が、 良質な言葉と悪質な言葉との分別を付けられなくなってしまう。
言葉は、 思考そのものを他人と共有するための暫定的な形でしかありません 。(よく、クッキーの生地の型抜きのようだなと思ったりします。 )しかし、その言葉を「自分の言葉」として、 紡ぎ出すことが他者との対話を深化させる条件であり、他者を、 尊重、 深い部分で理解するために必要な感性を涵養させるのでしょう。 一方で、自分からの言葉ではなく、他人の言葉を繰り返すことは、 自身を形骸化し、空虚な存在へと陥らせてしまう。そして、 その空白を埋めるために、無味乾燥で短絡的な、 言葉のような記号で自身を覆い、 ただただ他者を敵視するようになるのではないでしょうか。
ひろゆきはその代表的な人物であり、 今後そのような人間が増加することは自明の理です。
そうなれば、「人と人」という人間関係の基盤に亀裂が入り、 イデオロギーや宗教、‘普通’ の人と普通で無い人といった分断が無意識的に形成され、 認識を蝕むでしょう。


ネットには、本質を見誤り、自分自身に「正しさ」 を纏って他者の言動を辛辣に非難する人が度々見受けられます。
これは、ネットが可視化させただけで、 もともとそのような批判は巷に溢れていたと言う人も居ますが、 誰でも閲覧可能であり、言葉がいつまでも残り続ける空間の中で、 感情的に人を深く傷つける言葉を吐く人が多くいることは、 たとえ、 そのような言葉がネット普及以前に存在していたとしても、 YahooニュースやYouTubeのコメント欄などを見る限り 、可視化されただけと言うには多すぎるように思います。
『教団X』でも綴られていましたが、批判的な眼差しで捉えると、 ネットは社会への不満が渦巻き、 人と人との壁を厚くしているように思います。
これらが現実に顕出する際、犯罪や暴力、孤立… となるのでしょう。


読書という娯楽から、既得の価値観に蝕まれた自分を取り出し、 再構成する過程を歩まなくなった現在の人々の先に構えているのは 、破滅に至る「広き門」だと思います。

 


「力を尽くして狭き門より入れ。
破滅に至る門は広く、その道大きく、これより入る者多し。
生命に至る門は狭く、その道細く、これより入る者少なし。」
『マタイによる福音書』7章13.14節

『狭き門』アンドレ・ジイド より