ものさし

僕は、いつだって「ものさし」を忘れている。

人と人との関係には、いつも距離がある。その距離は、関係性によって様々で、遠く離れているものも有らば、近く感じられるものもある。

その距離を、僕は、感じようとしていない。ものさしを無いものとして人と話そうとするから。だから、僕は言葉を使う。言葉で、距離を取り除いていく。僕の頭から紡がれる言葉によって、相手の想像力に依存しながら、僕を「僕」にし、幻想を大きくしてもらうのだ。

幻想によって虚飾されたニセモノの「僕」は、相手にとって受容され易い存在となる。そして、本来必要としていた距離を抹消していくのだ。

僕の、「ものさし」の無い、人間関係の距離は、対他者を幻想の罠に陥らせる。人間は、現在進行形の言葉と、過去から蓄積された、物事の判断の基盤である個人の価値観とによって他者を認識していると思う。

僕は、ニセモノで生きることによって、今という時間を紡いでいるのではないか?

道化よりも酷い、もっと深い言葉が欲しい。変身…だろうか。僕は、誰かに受容されるために、僕では無い「何か」を、意識によって創出しているかもしれない。

破滅が僕を誘っている。全てにおいてだ。

 

パチン。と指を鳴らせば、この僕を全ての人が忘却した、僕のいない世界になることを願ってしまう。そうすれば、僕のせいで幸せを失う人がいなくなるから。

悪意の塊を管理できない僕は、絶えず人を困惑させ、苦悩に陥らせ、憂鬱を導いてしまう気がしてならない。

 

こんなことを言ったところで、僕は存在し続けるだろうし、自殺する勇気も持っていないから、生きてしまうのだろう。だから、僕は文章の中で自我を取り出して、批判していくしかないんだ。そうすれば、僕の悪を深く、本質まで捉えられる気がするから。

「ものさし」を無くした僕は、僕を取り出していかないとだめなんだ。