若き日の熱意

社会福祉協議会の紹介動画を見、自分の過去をぼんやり思い返すことになった。
改めてざっくりと振り返ってみると、当時、高校生の僕は(今以上に)「若さ」という特権で奔放になっていたように思う。
僕は、何か、大きな目的のために邁進してみたいと思っていた。そのため、自分が抱えた原罪から始まる貧困や差別の社会問題が記された本を図書館で漁り、あれこれ読んでいた。その期間、僕の心には実践をしなくちゃならないとの思いが醸造され、稲毛区の区役所に何の連絡も入れず、殆ど日記の役を果たすノートを取材ノートと題して持っていき、福祉課へと突撃取材を試みた日があった。
今考えてみると職員からすれば、日々の業務が忙しいなか、青二才の青年が「どんな仕事をしているのですか」と訊ねてきたのは、熱意は認めるものかもしれないけれど、「ネットで調べなさい」と一喝しても何らおかしくないことだったと思う。それでも、最初は30代半ばくらいの男性に丁寧に対応してもらい、その彼が都合で席を外したあとには非正規職員らしい60代くらいのおばあさんに、あれこれ僕の疑問をぶつけられたのはいい機会だったと思う。
そのおばあさんに、僕は社会福祉協議会稲毛区事務所とボランティアセンターに案内してもらうことになる。

孤独に蝕まれ、どこか女性との出会いを求めていた僕は、エレベータを乗って向かった先のボランティアセンターの、30代手前、女優の波瑠に似た爛々とした眼差しをした女性に一目惚れし、密かに何度も会いにいくしかないと決心したのであった。が、その決意は、机に向かい合って話すことによって一瞬にして瓦解する。

彼女と僕は、テーブル席に座り、どんなボランティアを募集しているのか、どんな内容なのか、僕がどんな思いを持っているのか…など話をすることになるのだけど、その中で僕は彼女のチラシを持つ左手の薬指に、アクセサリーにしては飾り気のなさすぎる、シルバーのリングが嵌め込まれているものを目にしてしまったのだ。

高校生で性欲が簡単に昂ってしまう、理性の抑制の効かない時分ではあったが、結婚をしているであろう女性に岡惚れなんてことはさすがに気が引け、「儚い恋だった」なぞと胸の内に失恋の情を想起させながら、最初向かい合ったときに振り撒いていた、社会を良くしたいと考えている熱のある青年像を壊さぬよう、必死に悲しさを抑え込もうとしたのだった。

失恋した気持ちになっていたとはいえ、彼女が勧めてくれる「こういうボランティアが○日にあるからやってみない?」という提案には二つ返事で承諾してしまう挙句、入る意味のわからない、ボランティア保険にも契約して、当時バイトのしていない僕にとっては大金だった数100円をそこで支払うことまでしてしまう始末であった。後から考えてみると、そういう姿勢でもって、彼女の僕に向ける印象を良くしようと頑張っていたのだ。それにしても、今も大して変わっていないが、惚れやすい性分というのはなかなか厄介なものである。
それ以降、元々目的としていた取材というものは少し達成されたたものの、新たに生成されてしまった、ボランティアセンターの女性に会うという、はたからすればどうしようもない目的のために、1週間に1回は区役所へと足を運ぶようになる。が、4回ほど通ったくらいだろうか、ボランティア希望でもないくせにそこへ向かい話をする僕に、彼女の方も飽き飽きとしてきたのか、一瞬、冷たい眼差しを向けたことに、僕は気付いてしまった。

自意識が今以上に過剰な僕は、あれこれ反省する始末となり、必然的に足が遠のいていった。
その日以降、ボランティアセンターに行けていない。
 

いつかの日記

昨日、日記を書かなかった。

僕は三日坊主だった。継続する力などなく、やりきることが出来ない人間。情けない。

なんでこんな書き方をするのだろう。僕は自分への批判をさせないようにしたいのだろうか。

何も思わないで欲しい。それが一番の救い。

 

最近、自分はイライラしてばっかだ。

イライラする原因は自分でもわかっている。自分と他者を差異できないからだ。

他者と自分を比較して、差別する。(この差別に侮蔑的な意味は無い)

そして、その他者を羨んでしまう。

羨んでいるその他者が、彼らが僕みたいに苦悩していることを知ってしまうと、それに対してもイライラしてしまう。

僕より十分優れているのではないか。なんで彼らが苦悩する必要があるのか。

僕は彼らに言ってやりたい。いいところ100個言ってやりたい。我ながらに最低なことを閃いてしまった。

いつかそうしてやる。そうだ。それが僕にできる抵抗だ。

 

僕が死んだとき、人に素直に向き合えない醜い心が、美しい一輪の花として咲いてほしい。

醜い心を持つ僕には、咲く花などないのかもしれないが、それを切望する。

セミの幼虫の体から生え、咲いた冬虫夏草はとても美しかった。命の開花。そう感じた。

 

「必死」この言葉には救われている。僕はどんな状態でも必死だから。寝ているときも、怠けているときも。

必ず死ぬ僕たちに、もう何も求めないでほしい。何か求めてきても必ず死ぬから、応えたくない。

 

僕は僕が大嫌いだ。この世で存在してる生命体で僕という存在が一番嫌いだ。

死ぬまでに僕は、こんな自分を好きになれるだろうか。

以前、僕は友達にこの話をした。そしたら、こんな質問を投げかけられた。

「自分が一番嫌いな奴に、自分の命を託せるか?」

僕は絶対託せない。と答えた。

友達は、その返事に対し、「じゃあ自分を好きになれ」と言った。

納得した。

それから、今の今までずっと自分の存在を少しでも肯定しようとしている。

が、まだその少しすらもできていない。

 

大人は自分の存在への理想を捨てたときになるのだろうか。

僕がこどもでいたいと願ってしまうのは理想が高すぎるせいなのか。

その理想すら自分でも把握していないはずなのに。

無意識のうちに、普通の人間にはなりたくないとでも思ってしまっているのだろうか。

ああ、自分がわからない。

が、残念ながら自分を知りたいとも思えない。

だから、わからないままだ。

 

自分を憐れむ文章を書いて、少しでも自分を肯定しているのだろう?と思っただろう。

その通りかもしれない。僕の根底には批判されたくない精神が宿っているのは確かなんだ。

その精神で物事を綴ると、どうしても自分を卑下したくなる。

 

情けない文章。明日は何を書くだろうか。

おやすみ。

断片

「緊張するのは、自分に自信がないから。

自分に自信がないのは、どっかで自分に期待してるから。

その期待がわからない限り、君はずっと、緊張すると思うよ。」

そういって、彼は、私の前で、人差し指と中指で挟んだ煙草を口元へ運び、おもむろにポケットからライターを取り出し、火をつける。そして、静かに煙を吸い、唇をすぼめて息を吐く。

彼は、くゆらせ浮かんでいく煙を眺めている。

私は、彼の瞳が私を見ていないことに安堵していた。

今の私は、ひどく緊張しているから。手元に置いてある、何も入っていないマグカップをずっと触っている。その手はなぜか、小刻みに震えていた。落ち着こうと思えば思うほど、その手は震える。

「緊張しなくなる日は、来るのかな」

灰皿に灰を落としていた彼は、顔を上げ、冷たく鋭い目を向ける。

私は手を足元に沿える。顔を見れない。震えを抑えるため、両手を組み、力を入れる。

「自分への期待がなくなるとき、緊張しなくなる」

彼は、つまらなそうに呟く。

「それは、自分が消える時、諸空間の責任に背を向ける時じゃない。それは嫌なの」

震える声を、意識し、自分の言葉をゆっくりと紡いでいく。

「じゃあ、君は緊張を肯定できるのか」

彼はすこし語調を強くし、煙草が灰皿へ強く押しつぶされる。

「無意識に根付いた期待は、不条理に緊張を生み出すんだ。そして、緊張する姿は、他者の認識に頼りなく、情けなく映る。映ったままに理解する、時間の無い人間は、その人間の本当の気持ちを理解できないかもしれない。が、本当の気持ちを理解する必要のない、消費主義がはびこる、能力主義が軸の現代において、空間への瞬間的な順応が難しい人間に、社会は生きる価値を与えてくれると思うのか」

「生きる価値が与えられるって何」

私は、彼の言葉に、苛立ちを隠せない。機能主義的な彼の言葉は、私を酷く不快にさせただけでなく、緊張から解放した。

「生きていく人間が、社会と蜜月になってしまうのは否定しない。けど、価値は自分の中で色付けられるものでしょう。自分という主体が、他者という主体と関わる現在を経験することで、価値を創出し、思い出という名の過去にするって思ってる。価値を与えられるのでなく、創り出していくのが、私たち人間の尊厳を保つことでしょう。そのときに生じた責任に、うまく意識を馴染めず緊張してしまうのは、当然だと思うし、必要なことだと思う」

彼は、私の言葉に気圧されたのか、閉口している。

「ごめん。少し言い過ぎた」私は、なぜか、謝罪を口にしてしまう。

私と彼を隔てる小さなテーブルが、忽然と大きな溝のように思えてくる。

実存という殻に覆われた私と彼。それだけでも距離があるのに。

「お待たせしました」

二人を包んでいた、重たい沈黙が店員の言葉で裂ける。

テーブルに、トマトソースがかけられたパスタと、二杯目の珈琲が置かれた。

「この店のトースト、意外とおいしいよ」

定員が去り、なぜか、テーブルにはないトーストの話が、私の口から出る。

「そうなんだ」

彼は、私の言葉に興味が無いようだった。考えを巡らせているのだろうか。

私は、彼の様子を見、パスタを食べることに専念する。フォークにパスタを小さく絡もうとする。しかし、手が震えているため、うまく巻けない。深呼吸をしてから、もう一度試みる。フォークに巻き付いたパスタをゆっくり口元に運んだ。味は、値段の割にはおいしくない。

 

私がパスタを食べ終えると、彼は煙草を取り出し、火を点け、吸う。

私も煙草を取り出し、口に添える。すると、彼は手元のライターを私の煙草に近づけ、火を点けてくれた。彼の些細な優しさ。煙を吸う。

「僕は、社会に出て働き始めたとき、緊張しすぎて、仕事が捗らなかった日が続いたんだ。毎夜、自分の仕事のできなさに憂鬱になってしまうから、ほとんど眠れない。自殺を考えた日もよくあったよ。その時、今さっき言った考えが浮かんだんだ。期待をなくし、責任を感じないために、心の自分を殺して、誰かに自分を委ねてしまおうって。それは、僕の尊厳を犠牲にすることだった。社会に要請されるままに生きることが、価値となっていく、自分の無い生き方だった。社会に出て五年が経とうとしているけど、これが大人なんだって考えることはよくあるよ」

彼の眼が、黒く濁り、悲しみを湛えていることに気付く。そして、彼が就職したのが、無名のベンチャー企業だということを思い出す。遅かれ早かれ必ず死ぬ人間に、「必死になれ」「一生懸命に取り組め」と死を要請するような言葉が飛び交う、能力主義が広まった社会。彼は、生きながら死ぬことを実行しているのだろうか。

「忘れてしまった初心を取り戻して、小さな幸せ、小さな不幸せ、たくさん感じ取ろうよ。たとえ、それが社会に否定されるものだとしても、尊厳は輝きはじめる」

彼は私を見る。私と彼は、灰皿に煙草を押し付け、火を消す。残った吸い殻が弱々しい煙を燻ぶらせている。

 

 

 

 私たちは、店を出、二人並んで夜道を歩き始めた。

 

 

『いじめ自殺~12人の親の証言~』鎌田慧著 感想

この本は、自殺してしまった少年少女の遺書の紹介(公開)とともに、なぜ彼らが死を選んでしまったかの主観的な考察が記されている。

この本では、亡くなられた児童の保護者が直面した、社会が作り出す、不条理が描き出されていた。

例えば、自殺した生徒が在籍した学校は、報道機関によって悪いイメージを創られる。その学校が、私立の学校だと、イメージが悪くなることによって、入学志願者が減って、経営が傾かねない。そのため、学校側は、自殺の原因が学校内の人間関係から生じた悩みなどの猖獗だとしても、「原因は家庭の事情である」といった形で責任転嫁しようとする。学校側は生徒の尊厳よりも、市場社会で生き延びるための選択を大切にするようだ。

 

PTA、学校の経営、いじめをした生徒の親…

PTAは、こどもを失った親に対し、学校側と組んで、学校の経営が傾かないような対策を練り、訴えることへの気力を失わせ、自殺した生徒が苦しんだ過去を無いものとして扱う事例もあった。

いじめをした生徒の親は、例え生徒が更生し、いじめを認め、罪を負おうと決心したとしても、子どもが法的に裁かれてしまうことを危惧、忌避し、子どもへ、生徒をいじめたのは正当防衛であって、悪の源因はこちらでなく向こうにあるのだと言い続け、半ば洗脳のようなことが起きていたそうだ。

 

遺書が無い、いじめ自殺は、大抵、自殺の源因を家庭内の不和として取り扱われてしまうため、本書に登場する、自殺した生徒の親御さんは、「遺書があれば…」と嘆ずる部分もあった。

 

何がいじめを引き起こすのかの具体的な構造は綴られていなかったが、人間関係が生み出す、「悪」について考察する契機となった本。

 

他者を排除したときに得る、自己存在への価値安定は、自分の不安定さを不安定さで安定させている、2枚のトランプを掛け合わせて立てる、トランプタワーみたいなものだ。

なぜ、差別やいじめのような、不安定による安定を求めてしまうのか…いろんな本を読み、人間の空間への構造を分析していきたい。

 

『グッドバイ』太宰治

太宰の最期の長編小説。

未完の小説。

この作品は社会を悲観し、嘆いた作品を多く書きだした後期の作品であるものの、悲観よりかは楽観的に書かれ、読んでいて明るくなれる作品だった。主人公の特徴には、太宰自身の影を帯びている面も少なからず感じるが、それ以上にその登場人物を批判せず、喜劇作品の人物として軽快に書かれていることに驚いた。僕が読んだ太宰の後期の作品は、自分を模した登場人物を徹底的に批判したものが多い。例えば、『人間失格』はその代表だと思う。自身が内面に抱えていた闇を丁寧に描き出し、そしてその闇を内面から批判する。また、『女類』という小説では、太宰を模しているだろう、笠井という女に打ちひしがれて女への偏見、侮蔑が激しい小説家を第三者が批判する文章。つまり、外側から批判させた小説も書いている。

これらの作品たちを通じて、自分の罪を抱える意識を徹底的に排除したのだろうか。自身と、どうしようもならない日本の現状とを批判しきったのだろうか。そして、それがゆえに新たな世界を見、『グッドバイ』という喜劇が書けたのだろうか。

最後を未完で終わらせるというのもなかなか喜劇的だなぁと思ってしまう。

入水した彼はおそらく、自殺願望を持つ、自身に似た人々へ「終わらない文章」贈ったのかもしれない。彼の最後の「死」への抵抗。

終わらない文章。

永遠不滅!

『饗応夫人』太宰治

「私、いや、と言えないの。」

客にぞんざいに扱われ、粉骨砕身の思いで饗応する夫人を、夫人の安息を願い、客との関わりをやめてほしいと思う女中の視点から描かれた作品。

 

夫人の断れない性格を逆手に取った大学の先生方の振る舞い、言動が腹立たしかった。横暴に対応する夫人は、対応、体の状態からどんどんと疲弊していくことがわかる。

女中の視点で描かれているため、女中の主観ではあるものの、夫人の悲惨さがひしひしと伝わってきて、読んでいてとても苦しくなった。

 

終盤、夫人は喀血する。そして、身の安息のために故郷へ帰る決断する。列車の切符も買い、帰郷の準備も済ませ、その夜出発しようと外へ出た。

外には待ち構えたかのごとく、夫人をぞんざいに扱う客が居、家に入ろうとしていた。

夫人は咄嗟に切符を破り、饗応に勤むのだった。

 

「私、いや、と言えないの。」この心持ちは、夫人の精神だけでなく身をも滅ぼしていく。

『朝』太宰治

遊ぶことが大好きな主人公。彼は仕事をしていても、友人が自身を訪ねて来ると遊びに出てしまう。

そんな自分を律しようと、家族にも教えていない秘密の仕事場(女の人の部屋)で仕事するのであった。

ある晩、彼はお酒を大量に飲み、帰れなくなる。そして、彼は秘密の仕事場と称する女の人の部屋で介抱してもらう。

何も考えずに寝、起きた頃、停電し部屋が真っ暗になっていた。

その真っ暗な部屋に光を灯すべく、蝋燭を付けるのだが、その蝋燭が短くなるにつれ、自分の五体が熱くなり、大胆になっていく。この蝋燭が消えたら..。と自分の恣欲の暴走という恐怖に身悶えながらじっとする。

そして、蝋燭が消える。

が、蝋燭が消える頃には夜が開けていた。

 

彼は起きて帰る支度をするのであった。

 

欲と理性の葛藤を描いた作品。

消えていく蝋燭の火に理性を重ね、自分の欲が抑えられなくなっていく..。

 

作中で交わされる、キクちゃんと主人公の会話に「バイブル」や「貴族の習慣」と言った話題が出てくる。どちらも面白おかしいお話の一環として出てくるのだが、こう言った話をする人物を描ける太宰の知識は本当に豊かだったことが伺える。