分断についての拙い考察

去年の夏休みのことです。

私は、祖父の故郷で最近の芥川賞受賞作と、川端康成芥川龍之介の作品を読み耽っていました。


それらを読みながら、深く、考えていたのは「分断」 についてです。


「貧困と富裕」「白人と有色人種」「性をめぐる差異」「人と人」 「資本家と正規雇用と非正規雇用」「資本主義とアンチ資本主義」などの分断が、 コロナ、経済不況、異常気象による災害、もはや長期化し過ぎて、 世界を分断へ傾けるための演出のようにも捉えられる、 ウクライナとロシアの争い… といった要素により深刻になっています。


私は、スマホなどの‘言葉を軽く扱わなければならない機器’ が普及したことで、 このような分断が深刻化したのではないかと考えています。


スマホなどの携帯電子機器の敷衍により、 LINEやTwitterInstagramFacebook等のSNSが急速に人々の生活に根を張り、 かつての人々が行ってきた、筆やペンを握りながら、 頭から言葉を捻り出し、洗練する作業などは、 一部の人の趣味になってしまった。このような現在では、 ほとんどの人が、 良質な言葉と悪質な言葉との分別を付けられなくなってしまう。
言葉は、 思考そのものを他人と共有するための暫定的な形でしかありません 。(よく、クッキーの生地の型抜きのようだなと思ったりします。 )しかし、その言葉を「自分の言葉」として、 紡ぎ出すことが他者との対話を深化させる条件であり、他者を、 尊重、 深い部分で理解するために必要な感性を涵養させるのでしょう。 一方で、自分からの言葉ではなく、他人の言葉を繰り返すことは、 自身を形骸化し、空虚な存在へと陥らせてしまう。そして、 その空白を埋めるために、無味乾燥で短絡的な、 言葉のような記号で自身を覆い、 ただただ他者を敵視するようになるのではないでしょうか。
ひろゆきはその代表的な人物であり、 今後そのような人間が増加することは自明の理です。
そうなれば、「人と人」という人間関係の基盤に亀裂が入り、 イデオロギーや宗教、‘普通’ の人と普通で無い人といった分断が無意識的に形成され、 認識を蝕むでしょう。


ネットには、本質を見誤り、自分自身に「正しさ」 を纏って他者の言動を辛辣に非難する人が度々見受けられます。
これは、ネットが可視化させただけで、 もともとそのような批判は巷に溢れていたと言う人も居ますが、 誰でも閲覧可能であり、言葉がいつまでも残り続ける空間の中で、 感情的に人を深く傷つける言葉を吐く人が多くいることは、 たとえ、 そのような言葉がネット普及以前に存在していたとしても、 YahooニュースやYouTubeのコメント欄などを見る限り 、可視化されただけと言うには多すぎるように思います。
『教団X』でも綴られていましたが、批判的な眼差しで捉えると、 ネットは社会への不満が渦巻き、 人と人との壁を厚くしているように思います。
これらが現実に顕出する際、犯罪や暴力、孤立… となるのでしょう。


読書という娯楽から、既得の価値観に蝕まれた自分を取り出し、 再構成する過程を歩まなくなった現在の人々の先に構えているのは 、破滅に至る「広き門」だと思います。

 


「力を尽くして狭き門より入れ。
破滅に至る門は広く、その道大きく、これより入る者多し。
生命に至る門は狭く、その道細く、これより入る者少なし。」
『マタイによる福音書』7章13.14節

『狭き門』アンドレ・ジイド より

脱げない服

 私は誰かに、「この服を着よ。」と命じられた。その命令は絶対で、「嫌だ。」とは言えなかった。いや、私は嫌だという感情すら持っていなかったかもしれない。命令に従うことだけが、出来ることだった。

 誰かが選んだその服は、似合わないように思えた。だが、選ぶ自由は無かった。着るしかなかった。

 私は用意された服を着る。途端、服が私に取り憑いたようだった。服が私になってしまった奇妙な心地がし、強烈な抵抗を抱いた。どうにかして服を脱ごうとする。だのに、脱ぎ方がわからない。服が私なのだ。

 脱ぐことが絶望的だと悟り、私は酷く落胆した。そして、私は鏡に映る自分を見ようとする。だが、暗闇のためにどんな姿の私が映っているのか、よく見えない。微かな明かりを頼りに、ゆっくりと鏡へ近付く。

 そこで私が見たものは、裸の私だった。わけがわからなくなり、呆然としていたとき、耳をつんざく電子音が鳴り始め、私は夢から醒める。

 夢で私に命令した人物は一体、誰だったのだろう。あの人の言う事は絶対だった。

 ラプラスの悪魔だろうか。世界の現象全てを超越し、把握している不可侵で絶対的な存在。

 私は、夢の中でその存在の声を聞いたのかもしれない。

ものさし

僕は、いつだって「ものさし」を忘れている。

人と人との関係には、いつも距離がある。その距離は、関係性によって様々で、遠く離れているものも有らば、近く感じられるものもある。

その距離を、僕は、感じようとしていない。ものさしを無いものとして人と話そうとするから。だから、僕は言葉を使う。言葉で、距離を取り除いていく。僕の頭から紡がれる言葉によって、相手の想像力に依存しながら、僕を「僕」にし、幻想を大きくしてもらうのだ。

幻想によって虚飾されたニセモノの「僕」は、相手にとって受容され易い存在となる。そして、本来必要としていた距離を抹消していくのだ。

僕の、「ものさし」の無い、人間関係の距離は、対他者を幻想の罠に陥らせる。人間は、現在進行形の言葉と、過去から蓄積された、物事の判断の基盤である個人の価値観とによって他者を認識していると思う。

僕は、ニセモノで生きることによって、今という時間を紡いでいるのではないか?

道化よりも酷い、もっと深い言葉が欲しい。変身…だろうか。僕は、誰かに受容されるために、僕では無い「何か」を、意識によって創出しているかもしれない。

破滅が僕を誘っている。全てにおいてだ。

 

パチン。と指を鳴らせば、この僕を全ての人が忘却した、僕のいない世界になることを願ってしまう。そうすれば、僕のせいで幸せを失う人がいなくなるから。

悪意の塊を管理できない僕は、絶えず人を困惑させ、苦悩に陥らせ、憂鬱を導いてしまう気がしてならない。

 

こんなことを言ったところで、僕は存在し続けるだろうし、自殺する勇気も持っていないから、生きてしまうのだろう。だから、僕は文章の中で自我を取り出して、批判していくしかないんだ。そうすれば、僕の悪を深く、本質まで捉えられる気がするから。

「ものさし」を無くした僕は、僕を取り出していかないとだめなんだ。

人を殺してはいけないのは何故?

なぜ人を殺してはいけないのか①

 


人を殺すことは、人間が犯してはならない禁忌の一つとして、いつの間にか、僕の意識に深く根付いていた。そのため、もっともな理由がないまま、人殺しを禁忌と考えてしまうことが多かったが、今回、この理由について考えてみようと思う。

 


人間が人間を殺す(「命」を奪う)のは、一般的に禁忌と考えられているが、果たして人間が、人間以外の動物の命を奪うことは許容されることなのだろうか。

動物愛護法の罰則

→日本には動物愛護法というものがあり、愛護動物を執拗に痛めつけたり、殺害した場合、罪に問われる可能性がある。

このような、法律として定められた動物殺害に対するルールがある。

 


しかし、虫を殺すことは非難されることもあるが、大体は、逆に称賛されることもあるくらいだ。

例えば、部屋で生活している際に、ゴキブリが急に出現したとしよう、その際、虫に馴染みのある人でなければ、すぐさま殺虫剤を手に取り、出現したゴキブリに執拗に吹きかけるだろう。そして、ゴキブリの命を奪っておきながら、安堵の表情をつくることだって珍しくない。

 


保健所で保護されている動物たちの行き着く先がどのようなものか今一度、認識してみようと思う。

 


日本では、平成30年の一年間だけで犬が7687匹、猫が30757匹殺処分されている。殺処分、つまり人の手(保健所で働く公務員)によって4万近い命が奪われているのだ。

動物たちはなぜ、殺されなきゃいけないのか。至極単純で悲しいが、お金が掛かるからという理由で彼らの命は奪われる。

(しかも、その処分方法は、安楽死剤の投与のようなものではなく、二酸化炭素で充満された部屋で窒息死をさせるという、苦痛を伴う処分方法なのだ。)

 


ネットで、愛護動物を捨てた、傷つけた、殺害した人物が誹謗中傷を受けたり、個人情報をさらされるなどの社会的制裁を受けることは多々ある。が、ネットで叩く人たちの大抵は、保健所での現状を知ったところで、恐らく何も行動しないだろう。(偏見)

彼らのような、webにて、ペルソナ(社会的仮面)を付けた人たちの、動物に対する愛情は尊敬したくなるが、実際のところ、感情のままに発言してるだけで、もし、自分が愛護動物へ愛を注ぎたくても注げないような、金銭面などの問題に直面した際、もしかしたら、社会的制裁を喰らった人物と同じこと、似たようなことをしてしまう恐れがあるのは考えて欲しい点だ。

 


ずらずらと動物、虫の命の扱いについて、自分の考えを並べてみたのだが、その場の状況、環境によって動物、虫の命の重さが変わってしまうことがわかった。

 


では、人間の命に話を戻す。

人間の命は、原則として平等な重さを保持している。政治家、芸人、ホームレス、孤独な者も含め、命の重さは変わらないと、一般的には考えられている。が、果たしてそうだろうか。僕のような醜い存在と、テレビで活躍する俳優とを天秤で測ろうとした際、社会的に見ると、差があるように感じてならない。

こう考えると、命は平等と訴えるのは、たてまえであって空虚なもののような、そんな印象を感じる。

世間から見たときの、その人への評価が、命への評価につながり、評価の高い者から低い者へのぞんざいな扱いが間接的に許されてしまうことになるのではないか。この許容が、人間の差を生み出し、命そのものの差となって、殺人へまでも繋がってしまうのではないか。

だが、殺人は断じて許してはいけない事柄の一つ。上記の考えだと、殺人をほのめかすような事態が発生する。

 


僕の大好きな作家である、中村文則は「命」と人間を別のものとして考えている。と言っていた。正直なところ、僕もこの考えに唸りつつも賛同している。

「命」という崇高で究極的な、目には見えない物質を持つのが人間で、その人間を殺傷する行為は、「命」を愚弄するという愚かな行為である。だからこそ、人は殺しを行ってはいけない。

この考えは、人間の「殺す」を戒めることができるだろう。が、実際のところ、僕たち人間は生きていくために、動物の命を頂いているのが現状だ。このように、人間は人間を殺してはいけないのに、「生きるために」人間以外の生命体を殺している。

 


では、この事柄をどう説明するか。

僕は、人間という生命体を、どのようなものか規定する必要があると考える。そして、他の生命体と区別するのだ。そうすれば、この事柄を上手く説明できる気がする。

 

昆虫の雄雌 実存の違いとはなんだろうか。

博物館に1人で行った時の考察。

・カブトムシ クワガタが雄雌で全く姿が違う。

雄は、雌と比べ頭部が発達しており、強靭な顎を持っている。そして、種によって顎の形が詳細に見ると違っているように、多様な変化をしている。しかし、雌は体格が小さく、強靭な顎を持っているわけではない。どの種も、色や模様は違えど、同じような小さい顎、同じような頭部胸部を持っている。

雄、雌でこんなにも体格が違うのは何故なのだろうか…。

 


セミたちの観察

同じ種でも、雄雌で大分身体の形状が違う。

どちらが雄で、どちらが雌なのかわからないため、雄の特徴、雌の特徴として記述することは出来ないが、一方の身体は、腹部が丸くなっているのに対し、もう一方は腹部の先端が鋭く尖っている。まるで、スズメバチの針のようだ。

 


ニホンジカの観察

驚いた。同じニホンジカという名を持ちながら、生息環境によって大きく体型が違う。

例えば、屋久島のニホンジカは他の同種と比べ、身体がとても小さく、角は弱々しい。対して、北海道のニホンジカは、身体が大きい。また、角は猛々しい。

⭐︎ベルグマンの法則

同じ種に属する恒温脊椎動物では、一般に環境の温度が低下するに従い、大型化する傾向が見られる。これは、大型化に伴って体表面積に対する体積の増加率が高くなり、体温維持の効率が良くなるためである。

その一方で、温暖な地域に生息する個体群では、小型化することによって体温の放散が容易になる。と説明されている。

この現象は、発見者のカール・ベルグマンの名を取り、「ベルグマンの法則」と呼ばれている。

※シカの体のサイズの変異

ニホンジカは、北の地域集団ほど大型で南の集団ほど小型化する傾向にあるため、ヤクシカ、ホンシュウジカ、エゾシカなど、多数の呼び名がある。しかしこれらは、それぞれの生息環境や気候に合わせた大きさを持つ、同種内の変異であると考えられる。かつては亜種として分類されたが、最近の研究では、これらを明確に類別することはできないことがわかっている。

 


・「島の規則」という現象

日本産イノシシは、九州本土以北の大型種イノシシと、南西諸島の小型種リュウキュウイノシシの二種に分類されていた。しかし、現在では、生息環境の違いによって大きさが異なっていることがわかっており、大陸産イノシシの亜種として扱われている。

気温の違いだけでなく、島嶼の哺乳類では、大型獣が小型化し、逆に小型のネズミなどでは大型化する傾向が見られる。

 


積雪が多い地域に生息する、ノウサギ(被食生物)、テン(捕食生物)の観察

冬の姿、夏の姿で全く違う。

冬の姿は、色彩の薄い(白い)毛を纏っている。対して、夏の姿は、茶色の毛を纏う。

近くにいた少女が、土に紛れるためにこの色になった。と推測していたが、その通りかなと思った。

展示物の説明文にて、「捕食者と被食者の双方にとって効果的な隠蔽色として機能している」と書かれている。

 


関東ローム層

主に富士山からの火山灰によって関東地域に形成された、厚いローム層。

弱酸性のため、動物骨は消失してしまっているが、石器や炉跡などの手がかりが残されている。

⭐︎なぜ、日本という島国に、渡来した現生人類(ホモ・サピエンス)がいるのか。

日本列島に人が明確に存在するとわかるのは、4万〜3万5000年前。この時の大陸の様子はどうなっているのか。

もし、海に大陸を隔てられているのならば、海を渡って日本列島に来たことになる。

僕は彼らに海を渡る技術があったとは思えないのだが…

 


縄文人の特徴

一万年以上にも及ぶ縄文時代

彼らは、狩猟と採集に依存する暮らしを営んでいた。長期間にわたり、この生活を営むことが出来たのは、彼らが自然を損なうことなく、巧みに利用していたからである。

縄文人は自然調和型

彼らは、季節によって異なる食料を採集し、さまざまな仕事に従事し、自然の恵みを効率よく取り入れた生活スタイルを持っていた。

縄文人は耳飾りを残している。

この耳飾りは、女性男性関係無く装着されていたのだろうか。耳飾りは何を象徴していたのだろうか。

 


弥生人の特徴

2900〜2500年前、大陸から水田稲作と金属器の文化とを持った人々が北九州と本州西部に渡来し始め、縄文人の子孫と混血しながら、ゆっくりと列島辺縁部に広がっていった。これこそが、日本人形成における、最大のイベントと言える。

→日本における最初の原始的な国家の成立

渡来人によって、日本に金属器と水田稲作とが伝わる。

稲作により、貯蔵ができる米という食料を確保したことにより、財産という概念が発生、それを獲得、防衛するために国家という組織が作られたと僕は考える…

金属器が同時期に伝わったことにより、より争いに「クニ」が巻き込まれていく可能性も増えたことだろう…

 


日本列島の素顔

屋久

1914年に九州の屋久島から切り出された。

空洞を除く年輪を数えると1450年ほど、樹齢は1600年となる。

スギの天然林があり、樹齢1000年以上のものをヤクスギと呼ぶ。

スギはヒノキ科に属する常緑針葉樹。

・オオセンチコガネ

北海道産、宮城県産、滋賀県産、奈良県産、高知県産、熊本県産、宮城県土井岬産、屋久島産と全て甲羅の光沢の色が違う…

地域ごとに違う色鮮やかなさまざまな姿を見せる昆虫オオセンチコガネ…とても心が惹かれた。

マイマイカブリ

タツムリを食す虫…

全体的に細長く、先端はさらに細い。

万年筆を彷彿とさせる。顔を近づけて展示物のマイマイカブリを見る。とっても気持ち悪い(笑)

?この昆虫は何故、カタツムリという虫を捕食するのだろうか。カタツムリは殻があって捕食するには面倒なはずだが…。

ヒラタクワガタって要指定外来種らしい…

・ヒサマツミドリシジミ、キリシマミドリシジミ

羽の光沢がとても綺麗な蝶だ。

鱗粉というのだろうか、粉末が羽に付着し、その蝶の羽を鮮やかにしているような気がする。まるで、厚化粧をしたとき、粉が少し多くついていると感じさせるような羽の鱗粉だが、鮮やかなため、気にならない。

とても美しい。

シジミという蝶(?)の種がとても美しい…

何かを魅惑しているような、妖艶な羽…。

鱗粉が光を反射し、僕の目に淡く儚い光を見せる…すごい。

いつかの日記

昨日、日記を書かなかった。

僕は三日坊主だった。継続する力などなく、やりきることが出来ない人間。情けない。

なんでこんな書き方をするのだろう。僕は自分への批判をさせないようにしたいのだろうか。

何も思わないで欲しい。それが一番の救い。

 

最近、自分はイライラしてばっかだ。

イライラする原因は自分でもわかっている。自分と他者を差異できないからだ。

他者と自分を比較して、差別する。(この差別に侮蔑的な意味は無い)

そして、その他者を羨んでしまう。

羨んでいるその他者が、彼らが僕みたいに苦悩していることを知ってしまうと、それに対してもイライラしてしまう。

僕より十分優れているのではないか。なんで彼らが苦悩する必要があるのか。

僕は彼らに言ってやりたい。いいところ100個言ってやりたい。我ながらに最低なことを閃いてしまった。

いつかそうしてやる。そうだ。それが僕にできる抵抗だ。

 

僕が死んだとき、人に素直に向き合えない醜い心が、美しい一輪の花として咲いてほしい。

醜い心を持つ僕には、咲く花などないのかもしれないが、それを切望する。

セミの幼虫の体から生え、咲いた冬虫夏草はとても美しかった。命の開花。そう感じた。

 

「必死」この言葉には救われている。僕はどんな状態でも必死だから。寝ているときも、怠けているときも。

必ず死ぬ僕たちに、もう何も求めないでほしい。何か求めてきても必ず死ぬから、応えたくない。

 

僕は僕が大嫌いだ。この世で存在してる生命体で僕という存在が一番嫌いだ。

死ぬまでに僕は、こんな自分を好きになれるだろうか。

以前、僕は友達にこの話をした。そしたら、こんな質問を投げかけられた。

「自分が一番嫌いな奴に、自分の命を託せるか?」

僕は絶対託せない。と答えた。

友達は、その返事に対し、「じゃあ自分を好きになれ」と言った。

納得した。

それから、今の今までずっと自分の存在を少しでも肯定しようとしている。

が、まだその少しすらもできていない。

 

大人は自分の存在への理想を捨てたときになるのだろうか。

僕がこどもでいたいと願ってしまうのは理想が高すぎるせいなのか。

その理想すら自分でも把握していないはずなのに。

無意識のうちに、普通の人間にはなりたくないとでも思ってしまっているのだろうか。

ああ、自分がわからない。

が、残念ながら自分を知りたいとも思えない。

だから、わからないままだ。

 

自分を憐れむ文章を書いて、少しでも自分を肯定しているのだろう?と思っただろう。

その通りかもしれない。僕の根底には批判されたくない精神が宿っているのは確かなんだ。

その精神で物事を綴ると、どうしても自分を卑下したくなる。

 

情けない文章。明日は何を書くだろうか。

おやすみ。

断片

「緊張するのは、自分に自信がないから。

自分に自信がないのは、どっかで自分に期待してるから。

その期待がわからない限り、君はずっと、緊張すると思うよ。」

そういって、彼は、私の前で、人差し指と中指で挟んだ煙草を口元へ運び、おもむろにポケットからライターを取り出し、火をつける。そして、静かに煙を吸い、唇をすぼめて息を吐く。

彼は、くゆらせ浮かんでいく煙を眺めている。

私は、彼の瞳が私を見ていないことに安堵していた。

今の私は、ひどく緊張しているから。手元に置いてある、何も入っていないマグカップをずっと触っている。その手はなぜか、小刻みに震えていた。落ち着こうと思えば思うほど、その手は震える。

「緊張しなくなる日は、来るのかな」

灰皿に灰を落としていた彼は、顔を上げ、冷たく鋭い目を向ける。

私は手を足元に沿える。顔を見れない。震えを抑えるため、両手を組み、力を入れる。

「自分への期待がなくなるとき、緊張しなくなる」

彼は、つまらなそうに呟く。

「それは、自分が消える時、諸空間の責任に背を向ける時じゃない。それは嫌なの」

震える声を、意識し、自分の言葉をゆっくりと紡いでいく。

「じゃあ、君は緊張を肯定できるのか」

彼はすこし語調を強くし、煙草が灰皿へ強く押しつぶされる。

「無意識に根付いた期待は、不条理に緊張を生み出すんだ。そして、緊張する姿は、他者の認識に頼りなく、情けなく映る。映ったままに理解する、時間の無い人間は、その人間の本当の気持ちを理解できないかもしれない。が、本当の気持ちを理解する必要のない、消費主義がはびこる、能力主義が軸の現代において、空間への瞬間的な順応が難しい人間に、社会は生きる価値を与えてくれると思うのか」

「生きる価値が与えられるって何」

私は、彼の言葉に、苛立ちを隠せない。機能主義的な彼の言葉は、私を酷く不快にさせただけでなく、緊張から解放した。

「生きていく人間が、社会と蜜月になってしまうのは否定しない。けど、価値は自分の中で色付けられるものでしょう。自分という主体が、他者という主体と関わる現在を経験することで、価値を創出し、思い出という名の過去にするって思ってる。価値を与えられるのでなく、創り出していくのが、私たち人間の尊厳を保つことでしょう。そのときに生じた責任に、うまく意識を馴染めず緊張してしまうのは、当然だと思うし、必要なことだと思う」

彼は、私の言葉に気圧されたのか、閉口している。

「ごめん。少し言い過ぎた」私は、なぜか、謝罪を口にしてしまう。

私と彼を隔てる小さなテーブルが、忽然と大きな溝のように思えてくる。

実存という殻に覆われた私と彼。それだけでも距離があるのに。

「お待たせしました」

二人を包んでいた、重たい沈黙が店員の言葉で裂ける。

テーブルに、トマトソースがかけられたパスタと、二杯目の珈琲が置かれた。

「この店のトースト、意外とおいしいよ」

定員が去り、なぜか、テーブルにはないトーストの話が、私の口から出る。

「そうなんだ」

彼は、私の言葉に興味が無いようだった。考えを巡らせているのだろうか。

私は、彼の様子を見、パスタを食べることに専念する。フォークにパスタを小さく絡もうとする。しかし、手が震えているため、うまく巻けない。深呼吸をしてから、もう一度試みる。フォークに巻き付いたパスタをゆっくり口元に運んだ。味は、値段の割にはおいしくない。

 

私がパスタを食べ終えると、彼は煙草を取り出し、火を点け、吸う。

私も煙草を取り出し、口に添える。すると、彼は手元のライターを私の煙草に近づけ、火を点けてくれた。彼の些細な優しさ。煙を吸う。

「僕は、社会に出て働き始めたとき、緊張しすぎて、仕事が捗らなかった日が続いたんだ。毎夜、自分の仕事のできなさに憂鬱になってしまうから、ほとんど眠れない。自殺を考えた日もよくあったよ。その時、今さっき言った考えが浮かんだんだ。期待をなくし、責任を感じないために、心の自分を殺して、誰かに自分を委ねてしまおうって。それは、僕の尊厳を犠牲にすることだった。社会に要請されるままに生きることが、価値となっていく、自分の無い生き方だった。社会に出て五年が経とうとしているけど、これが大人なんだって考えることはよくあるよ」

彼の眼が、黒く濁り、悲しみを湛えていることに気付く。そして、彼が就職したのが、無名のベンチャー企業だということを思い出す。遅かれ早かれ必ず死ぬ人間に、「必死になれ」「一生懸命に取り組め」と死を要請するような言葉が飛び交う、能力主義が広まった社会。彼は、生きながら死ぬことを実行しているのだろうか。

「忘れてしまった初心を取り戻して、小さな幸せ、小さな不幸せ、たくさん感じ取ろうよ。たとえ、それが社会に否定されるものだとしても、尊厳は輝きはじめる」

彼は私を見る。私と彼は、灰皿に煙草を押し付け、火を消す。残った吸い殻が弱々しい煙を燻ぶらせている。

 

 

 

 私たちは、店を出、二人並んで夜道を歩き始めた。