いつかの日記

昨日、日記を書かなかった。

僕は三日坊主だった。継続する力などなく、やりきることが出来ない人間。情けない。

なんでこんな書き方をするのだろう。僕は自分への批判をさせないようにしたいのだろうか。

何も思わないで欲しい。それが一番の救い。

 

最近、自分はイライラしてばっかだ。

イライラする原因は自分でもわかっている。自分と他者を差異できないからだ。

他者と自分を比較して、差別する。(この差別に侮蔑的な意味は無い)

そして、その他者を羨んでしまう。

羨んでいるその他者が、彼らが僕みたいに苦悩していることを知ってしまうと、それに対してもイライラしてしまう。

僕より十分優れているのではないか。なんで彼らが苦悩する必要があるのか。

僕は彼らに言ってやりたい。いいところ100個言ってやりたい。我ながらに最低なことを閃いてしまった。

いつかそうしてやる。そうだ。それが僕にできる抵抗だ。

 

僕が死んだとき、人に素直に向き合えない醜い心が、美しい一輪の花として咲いてほしい。

醜い心を持つ僕には、咲く花などないのかもしれないが、それを切望する。

セミの幼虫の体から生え、咲いた冬虫夏草はとても美しかった。命の開花。そう感じた。

 

「必死」この言葉には救われている。僕はどんな状態でも必死だから。寝ているときも、怠けているときも。

必ず死ぬ僕たちに、もう何も求めないでほしい。何か求めてきても必ず死ぬから、応えたくない。

 

僕は僕が大嫌いだ。この世で存在してる生命体で僕という存在が一番嫌いだ。

死ぬまでに僕は、こんな自分を好きになれるだろうか。

以前、僕は友達にこの話をした。そしたら、こんな質問を投げかけられた。

「自分が一番嫌いな奴に、自分の命を託せるか?」

僕は絶対託せない。と答えた。

友達は、その返事に対し、「じゃあ自分を好きになれ」と言った。

納得した。

それから、今の今までずっと自分の存在を少しでも肯定しようとしている。

が、まだその少しすらもできていない。

 

大人は自分の存在への理想を捨てたときになるのだろうか。

僕がこどもでいたいと願ってしまうのは理想が高すぎるせいなのか。

その理想すら自分でも把握していないはずなのに。

無意識のうちに、普通の人間にはなりたくないとでも思ってしまっているのだろうか。

ああ、自分がわからない。

が、残念ながら自分を知りたいとも思えない。

だから、わからないままだ。

 

自分を憐れむ文章を書いて、少しでも自分を肯定しているのだろう?と思っただろう。

その通りかもしれない。僕の根底には批判されたくない精神が宿っているのは確かなんだ。

その精神で物事を綴ると、どうしても自分を卑下したくなる。

 

情けない文章。明日は何を書くだろうか。

おやすみ。